2000-09-06 第149回国会 参議院 決算委員会 閉会後第4号
○田英夫君 まさにそういうことなんですが、この戦後すぐにできた最初の電波監理委員会という方、これは民間の方が委員になっていて、例えば荒畑寒村さんなどという、左派と言ってはあれですが、そういう方も。委員長をやったうちの一人は、当時、共同通信の編集局長をやった松方三郎さんという明治の松方太公の息子さんですが、そういう方も委員長をやられたことがあります。
○田英夫君 まさにそういうことなんですが、この戦後すぐにできた最初の電波監理委員会という方、これは民間の方が委員になっていて、例えば荒畑寒村さんなどという、左派と言ってはあれですが、そういう方も。委員長をやったうちの一人は、当時、共同通信の編集局長をやった松方三郎さんという明治の松方太公の息子さんですが、そういう方も委員長をやられたことがあります。
むしろ改悪されたと私は思っておりますが、それ以前、終戦直後から二十六、七年まで実はアメリカと同じような考え方の電波審議委員会というのがあって、荒畑寒村さんという人が、いわば反権力の文化人というような人が委員になっていた時代があります。その時代の電波審議委員会の法律的規定、構成、どうなっていたかをお調べおきいただきたい、御勉強いただきたいということ。
昭和四十八年十一月、三里塚闘争の戸村一作氏に連帯する会を結成いたしまして、羽仁五郎、荒畑寒村、小田実、水戸厳、それから松岡洋子、末川博、こういう方々、大阪にも府会議員になっておられる方でこの末川さんのまな弟子でベ平連の事務局長をされておられた方がおられます。昭和四十九年参議院全国区に立候補されました。この戸村一作でございますが、二十三万票で落選。その後パレスチナを訪問。
当時、この間亡くなられました荒畑寒村先生に私はお会いした。先生はこう言ったのです。社会主義者の第一歩は隣の人への愛情からだ、しかしいまの社会主義者にはそういういいところがなくなっておる、こういうことを言われたのです。私はいまでもその言葉を思い出します。
第四には、事件当時の被告人の友人とか知人とか、被告人を知る人の書いたもの、たとえば荒畑寒村の書かれたものなどもあります。そういう証拠が第四であります。 それから第五には、吉田石松事件でよく行動証拠といわれたそれに相応するものでありますが、被告人らの判決後の行動によって無罪を立証しようという新たな証拠であります。
日本の労働運動は荒畑寒村氏の時代から数えても四十何年の歴史を持つておる、そうして日本には三十年内外の労働運動の経驗を持つておる者が何十人、何百人とおる。しかも産別、総同盟とわかれておるような状態である。そういうような状態を無視しておる。鈴木君はこの間まで論説委員をやつていた男である。しかもこれは聽濤君と一緒に論説委員をやつておつた。
その点は荒畑寒村氏も指摘しております。どうぞこの点よく御勘考くださいまして、現実と遊離しない、そしてほんとうに労資がみずから立つてやれるという能勢を損なわないように、御留意をお願いいたします。なお最初に申し上げましたが、時間が超過いたしましたので、経営者として現下の労働対策というものをもつておりますが、これは別の機会にお讓りすることにいたします。
それから斡旋員は中央が西尾末廣氏、荒畑寒村氏、徳田求一氏以上衆議院、高瀬荘太郎氏参議院、川上嘉市氏参議院、それから地方斡旋員は山形縣安達良助参議院、茨城縣萬田五郎衆議院、埼玉縣古島義英衆議院、東京都奥むめお参議院、同高瀬荘太郎参議院、長野縣林百郎衆議院、同長野縣羽生三七参議院、靜岡縣藤井新一参議院、愛知縣佐伯卯四郎参議院、三重縣足立梅市衆議院、岡山縣太田敏兄参議院、廣島縣山下義信参議院、山口縣田村虎一衆議院
今のところ、中央では衆議院が二名でございまして、荒畑寒村さんと、それから島上善五郎さんの二人、これは労働代表だけでございます。使用者の代表はございません。それから参議院の方は、今の原虎一さんが、中央の労働代表として選出されております。地方の方は今ちよつと名簿を持つておりませんので、なんでございましたらあとでお手許にお届けいたします。